遠藤周作、30年前の提言から 「心あたたかな医療」運動のこと
2012 恒志会会報 Vol.7 より
加藤宗哉 Muneya Kato:作家 「三田文学」編集長
作家・遠藤周作が晩年に行なったキャンペーン「心あたたかな医療を考える」は、遠藤家で家事を手伝う女性の、突然とも言える死がきっかけとなってはじまった。
彼女は25歳という若さで骨髄癌に冒され、余命一ヶ月を宣告されていた。
それでもなお種々の検査が繰り返されるという状況を見かねた遠藤は、病院に対して検査回数の減少を申し入れた。
同時に、遠藤は人気作家になって以来初めて、自分から原稿を新聞社に持ち込んだ。
そのエッセイ「患者からのささやかな願い」は 1982(昭和57)年の4月4日から9日まで「読売 新聞」夕刊に掲載され、それに共感した読者からの投書は300通を超えたと報告されている。
こうして、「心あたたかな医療を考える」運動は開始された。
遠藤は新聞・雑誌で精力的に医療 関係者たちと対談をした。
あるいは病院や大学で 講演を行ない、医療奉仕のボランティア・グループも組織した。
しかしそのような提言や行動が、一部の医師や看護師からの反発を招いたのも事実だった。
彼等の多くは言った。 ―医療には、小説家のような「医療の素人」にはわからぬ問題が数多くあるのだ。
これに対して遠藤はこう反論した。 ―医師が病気の玄人だと言うのなら、私は患者の玄人です。
実際、この作家は若い日からじつによく病気をしていた。
学生時代の結核にはじまり、痔、肝臓 病、糖尿病、そして結核の再発。
その後も高血圧、蓄膿症、腰痛、前立腺炎を体験し、さらに最後は腎臓を患っての人工透析と、その人生のほとんどを病気と向き合ってきた。
だからこそ、「私は患者の玄人です」と言うのである。
しかし遠藤は新聞や雑誌で、医療制度批判や医学の倫理を説こうとしたのではなかった。
彼が提案したのは、病院で改善可能と思われる現実的な問題 ―たとえば、入院患者の夕食時間についてであった。
当時(1980年代)の病院の夕食時間は 4時半から5時というケースが多くみられたが、それについて遠藤はこう言った。
健康な人間でもそんな時刻に夕食は摂らない、まして病床にあって運動はもちろん動くこともままならない患者なら尚更ではないか。
だから、「せめて夕食の時間 は午後6時に」と提案したのである。
あるいはまた、尿検査の際、患者が若い女性であったとしても、病院側は「この紙コップに尿を採って、ここまで持って来てください」と言った。
つまり、その若い女性患者はトイレで採った尿を入れた紙コップを手にして、多くの人びとがいる待合室の前を歩かねばならなかった。
その無神経さに対して、改善を勧めたのである。
いま、夕食時間が4時半や5時という病院を見かけることはないし、また尿検査の紙コップもトイレに所定の容器入れが備えられているのを我々は知っている。
こうした遠藤周作の医療への提言に賛同した人びとは当時も多かったが、そのなかには当然ながら医学の専門家たちもいた。
前弘前大学学長の吉田豊氏もその一人で、彼には『医者がみた遠藤周作 ―わたしの医療軌跡から』(プレジデント社刊)という著書もある。
そのなかで、吉田氏は「わたしの記憶に深く残るひとりの生理学者」として久野寧の名を挙げ、久野の色紙の言葉「医の道は弱者への無限の道場である」についてこう記している。
「わたしはずっとその言葉こそ医療の本質だと思い、座右の銘としてきた。作家・遠藤周作と生理学者・久野寧の考え方は、この『無限の同情』、あるいは『哀しみへの連帯』という点で深く結びついている。だからこそわたしは遠藤周作という作家が行なった医療への提言に心惹かれるのだ」
吉田氏が書くように、遠藤文学は弱者や苦しむ者への共感と連帯感が主要なテーマになっていて、その意味では先の医療キャンペーンも発想の根本は同じである。
そして遠藤周作の場合、日常の生活においてもそれはまったく変ることはなかった。
思い出される光景がある。
まだ遠藤周作が60代の初め、にぎやかに飲んで騒いで笑った集りの、夜の帰り道、タクシーが信濃町駅前に差しかかろうとしたとき、遠藤が不意に、車をとめてくださいと言った。
そして舗道に降り立ち、車道の向こう側をじっと眺めはじめた。
私も車を降りて一歩 離れて立ったが、遠藤周作の視線の先は慶應病院の入院病棟だった。
すでに午後9時を過ぎていて、病室の灯りは消えていた。
その黒い窓に向かい、いっとき、長身を伸ばすようにしていた。
30秒ほどだったろうか、「いや、すまない」と言うと、 もう車内にもどっていた。
私は、尋ねることがなぜかためらわれた。
そして一人で勝手に考えたのだが、たしかにそこは、かつて30代の終りの結核再発で3年の入院生活を余儀なくされた場所だった。
だがその個人的な思い出のためにさっき、夜の舗道に降り立ったのではないように思えた。
・・・その黒い窓のむこうには、いまも多くの入院患者たちがいて、病と向き合っている。
その人びとの辛さや苦しみに思いを合わせ、共感し、連帯しようとしたのだ、そうに違いない、と私は確信した。
Independence
テキストのセクションを使って自己紹介や、情報の表示、トピックのサマリー、ストーリーの紹介などを表示します。ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。
加藤 宗哉 ❖ かとう むねや
1945年 東京生まれ。
慶應義塾大学経済学部卒。
学生時代に遠藤周作編集の「三田文学」に参加、同誌に発表した小説が文芸誌に転載され、作家 活動に入る。
著書に『モーツァルトの妻』(PHP文庫)、『遠藤周作 おどけと哀しみ――わが師との三十年』(文 藝春秋)『愛の錯覚 恋の誤り――ラ・ロシュフコオ『箴言』からの87章』(グラフ社)、『遠藤周作』 (慶應義塾大学出版会)など。
現、慶應義塾大学文学部非常勤講師、東京工芸大学芸塾学部非常勤講師。
1997年より 「三田文学」編集長。
参考文献
遠藤周作さんが提唱した「心あたたかな病院」キャンペーン
原山建郎(遠藤ボランティアグループ顧問兼代表)
私たち遠藤ボランティアグループが首都圏の医療施設などで行なっている病院ボランティア活動は、今秋(2013年)、活動30周年を迎えます。
そこで、今月から、『沈黙』、『深い河』などの作品で知られる作家・遠藤周作さんが提唱した「心あたたかな病院」キャンペーンの歴史、その思いを受け継いだ遠藤ボランティアグループの活動、遠藤さんの呼びかけに賛同して今も心ある医療を支えている医師、看護師の「30年」を、そのはじまりから少しずつ紹介していきたいと思います。
今回は、まず遠藤さんが讀賣新聞(夕刊)に寄稿した「患者からのささやかな願い」(1982年4月4~9日)のうち、『遠藤周作のあたたかな医療を考える』(讀賣新聞社、1986年)に収められている第5回目の原稿をご紹介しましょう。
ここに書かれている遠藤さんの願いが、私たち遠藤ボランティアグループの思いなのです。
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「患者からのささやかな願い」 第5回 遠藤周作
五回にわたり患者としてのささやかな願いの一部を書きました。
まだまだ書きたいことはありますが、回数の関係上、このあたりで一応筆をおき、ここでは今まで言ったことを簡単に整理しておきたいと思います。
五回にわたって書きたかったことは結局、医学は科学ではあるが、同時に医者と患者とが苦しみや死を通して人間対人間として接せざるをえないゆえに、宗教や文学と同じ人間学でもあるということです。
それなのに現代の医学や病院ではこの医学と人間学との歯車がうまくかみあっていない。
かみあっていないどころか、時には「人間のための医学」であるべきものが「医学のための医学」になる傾向がますます強まっている。
そこから日本の病院のなんとも言えぬあの荒涼とした面が生じるのではないかと私には思われます。
そんな事は今更、私が言わなくても患者のあいだで既に論じられていることでしょう。
しかし、論じられても具体的な解決策が日本の病院の実情に即して一向に提案されません。
私だって今、どうしたらいいのか、はっきり言えぬのが本音です。
色々な大きな問題、色々な制度がそこにからみあっていて、善意の医者、善意の看護婦の個人的努力だけでは焼け石に水になるだけでしょう。
私のところに寄せられた手紙にも「そういう矛盾にくたびれ」大病院をやめて町のお医者さまになった医師からのものが何通かありました。
しかし、このままでいいとはだれも思っていない。
我々はいつかは病気になるのですし、いつかは死ぬのです。死ぬことが問題ではなく、死ぬ場所 ―今はそれが病院という場合が多いのですが、その死ぬ場所で生き残る人から「あたたかい」心を受けて感謝しつつ死ぬのと、孤独とつらさのなかで死ぬのとでは我々の人生で大きなちがいがあります。
「あたたかい病院がほしい」というせつなる願いは患者にはもちろんのこと、医師も看護婦もひとしく心の奥に持っているはずです。
だから私は医学の知識もないのにあえてこの文章を書きました。
まちがったこと、思いちがいも文中に多々あったと思います。
だから今後、私の夢が実現できるよう医師、看護婦さん、ソーシャル・ワーカーそういった専門家のかたたちの御協力がいただきたいのです。
現状において出来ないことをいわゆる正義の御旗をたてて論じても仕方ありません。
さしあたって明日からでもできることは、くりかえすようですが、患者の治療に必要でない苦痛をできるだけ与えないでいただけないか」と言うことです。
やむをえぬ時はその理由を患者にわかりやすく説明してほしいということです。
また一寸した言葉づかいや設備の改善で患者の屈辱感が随分すくわれることがいくつもあります。
そんな屈辱を感じるのは当人が神経質だからだなどと一笑に付さないでください。
病人というのは病院に入っただけでももう平生のゆったりした気分を失い、すべてにピリピリしているのです。
これらのことは今日からでも日本の病院のなかで改善できるような気がします。
ああ、この病院は患者の心にこんなに気をつかっていると感じただけで、患者はもううれしくなるのです。
病院の経営者たちにお願いしたい。
重症患者の家族が泊まれる簡易設備をやはり作ってくれませんか。
それは雑居式の蚕棚式のベッドでも結構なのです。
それによって大部屋の病人の家族はどんなに助かるでしょう。
患者もまた、どんなに安心感を抱くことができるでしょう。
戦後、アメリカから完全看護という名目で病人と家族を離すやり方が採用されましたが、あれは家族としっかり結びつく日本人にはむかぬと私は思っています。
日本の病人は多少の例外はあっても家族にみとられたい気持ちはいつも心にあるのでしょう。
そういう今日からでもできることから出発して、私はあたたかい病院が日本に少しずつ出来たらと思います。
もちろん、すべてが完全にいくとは私とてゆめ考えていません。
しかし、ひとつの病院が苦しんでいる病人の肉体だけでなく、その心のつらさにも手をさしのべようと努力しているのと、ただ肉体の治療がすべてと思っているのでは大きな次元の差があるのです。
私はこの文章を読んで手紙をくださった人々とやがて会合をひらき、意見を交換し、少しずつ「あたたかな病院」をつくるため何かをしたい気持ちです。
それが前進したところで、また書かせてもらいます。
【讀賣新聞(夕刊)昭和57年4月9日】
この連載寄稿に二百通あまりの反響の手紙があり、それに答えるかたちで再び寄稿した「心あたたかな病院」の末尾を、病院ボランティアの希望者は手紙をくださいと結んだのです。
病人の愚痴や嘆きを、じっと「聞いてあげる」ボランティアになってくださる人はいませんか(男、女を問いません)。
しかしこれは多少の勉強がいるので、そのことをお含みください。
この試みは試行錯誤なので色々、研究しながら改めていかねばならぬものですから。
その後の経過について、遠藤ボランティアグループ議事録の冒頭に次のように記録されています。
昭和57年6月23日(水)午前10時
聖路加国際病院に参集したのは、次の6名であった。
白須、高岡、谷口、水野、畑、小椋
昭和57年5月4日付の讀賣新聞夕刊に、遠藤周作氏の《心あたたかな病院》が掲載された。
その記事で「病人の愚痴や嘆きをじっと〝聞いてあげる〟ボランティア」を呼びかけられた。
それに応募した者に(遠藤氏から)返信があり、それに従って聖路加国際病院ボランティア係に連絡すると、リーダーを紹介された。その指示に従って集まったものである。
しかし、遠藤氏と病院側の連絡が不充分で、(遠藤氏からの)返信にあったような(適性)テストや教育も受けられないことが判明した。
ボランティアの内容も当方の志すものと異なっていたので、ぜひ遠藤氏と話し合う必要があるということになり、白須が折衝することになった。
この六名の「勇気」が、現在の遠藤ボランティアグループ誕生の大きな原動力となったのです。
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遠藤ボランティアグループ作家の遠藤周作さんが提唱された「心あたたかな医療を願う」志を受け継いで、患者さんに安らぎを感じていただけるよう、ささやかな病院ボランティア活動を行うグループです。
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